そう尋ねられて、今歌わなければ死ぬと言うと納得された。
そこまで言わなければ収まらないだろうと思った。
歌は誰もが歌う。一例を上げる。演歌歌手の若手で一番人気のHがいる。彼を批判すると、相当なバッシングを受けるだろう。しかし言う。あれは歌ではない。威勢に任せる、叫びに近い。
生まれ持った資質で歌う。才能がある。だが、歌は、つまり声にして歌う歌は、威勢ではない。年齢の問題ではない。若手でも、良い歌手はいる。
演歌歌手では藤岡が巧いと言ったのは韓国出身のキムなんとかである。
演歌歌手では浪曲系から出た歌手が巧い。今は、ほとんど死に絶えた。
何を言いたいかというと日本語である。日本語の語感である。声楽家による日本の歌で、語感を感じる者は、皆無に近い。母国語の語感がなくて、フランス歌曲、イタリア歌曲を聴いても信じられない。それぞれの国には、それぞれの語感がある。
日本語の語感は「もののあわれ」である。哀調ではない。これを話すと長くなるので、止める。
歌は世につれだから、今流行の歌を聴けば、世の中が解る。
Hの軽さはただ事ではない。情緒を廃してしまった。薄っぺらな顔を皆、好むようである。
これ以上言うと、僻みに受け取られるようなので言わない。
何故歌うのか。放置して置けないからである。霊能者のような歌手Mがいる。音程も何もない。しかし、語感がある。森繁という役者の大御所がいる。音程などない。しかし語感がある。
歌えば歌うほど難しくなる。誰もが歌えるが、人に聞かせる歌を歌うのは至難の業だ。
母が子供に聞かせる歌に、歌の原点があると言う。誰に聞かせるのか明確である。子供の心に聞かせてる。耳に聴かせるのではない。心に聴かせるのである。心は、胸の辺り、水落の辺りにある。そこに響くのである。実は、歌い手も、そこで歌う。
ベルカントで日本語を歌うと、何語で歌っているのか解らない。早く気づくべきだと思うが、頭がやられているようで、悦に入っている。