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明日は

藤岡宣男「神上がり」425日祭である。
去る者は日々に疎し、と言われる。噂も話題も遠のき、何事もなかったのかのように、その存在が忘れ去られる。それでいい。
古神道の奥義は「ただ風か吹くのみ」である。
人が死んで50年も経つと、忘れ去られる。誰も知る者はいない。
さて言う。人生は虚仮であると看破するものの見方がある。虚仮とは、虚である。
「夢と起き夢と消えぬる人の世や浪花のことは夢のまた夢」秀吉の時世の句である。
無意識下で、人は、この世が虚、つまり現象の世であることを知っている。実相の世界ではないと。脳の2パーセント程度を使用し、三割程度の顕在意識で生きる。それをすべてであると勘違いする人。知りえることが虚仮であると知らない。
生きるとは、暗い夜道を歩いているようなものである。
死者は確実である。此の世にあった欲望等々から開放されて、自由を得る。そして360度という全方位を見渡せる。
生前行ったすべてのことに因果の跡を観る。
藤岡の思念を受けて指導されている者が、どこの文献のどのあたりに、それが書かれてあると教えられて調べて、驚いたと言う。その通りであったと。不思議であろうか。
何の不思議は無い。宗教の開祖は、霊界の情報を得て教えを宣べる。その霊界のレベルにより、その教えも多く不完全であることが多いが・・・
さて、死後の世界を信じない者も、墓石に拘るという愚かしさを眺めつつ、私は、藤岡の425日を思う。425日は、私の問題である。
その間、一日、一枚の原稿を書いても、425枚を書けるのである。
問題はそれである。それは10200時間である。私が何を成したか。問題は、それである。
時間も虚仮であることを知って、私は仇討ちをしている。虚仮に対する仇討ちである。
生身の人間は、私の相手にならない。私は、この世の虚仮に立ち向かう。それでよし。

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2006年11月24日 14:26に投稿されたエントリーのページです。

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