2011年07月10日

霊学28

大別して自己愛には、心理的な面と生理的な面との両面があります。
小此木啓吾

話しは、どんどんと、広がっていく。

フロイトは、自己愛が心身未分化な形で、満たされた状態の原型を、生まれたての赤ん坊に見出した。
これを、一次的自己愛と名づけた。

つまり生まれたばかりの赤ん坊というのは、まったく外界に関心がなく、自分の中で自給自足して、自分だけに引き籠っている状態にいるわけです。
小此木

赤ん坊が、満たされている状態のためには、生理的な欲求が、すべて、満たされている状態である。

大人の場合は、一次的自己愛に当る、生理的な自己愛状態は、睡眠状態だと言う。

ただし、昼間の、ストレスなどが残れば、安眠は、出来ない。ゆえに、一次的自己愛は、満たされない。それが、続くと、心理的に不安定になる。

だが、夢を見ることで、睡眠中に生じる、外界の刺激、自分の内部に生じる欲望や、不安などを、夢の中で、処理して、自己愛の状態を、守ろうとする。

小此木氏は、
眠る時は、完全な自己愛状態になれば、なるほど、よく眠れるという。

さて、フロイトは、人間の、自己愛をめぐる、苦悩、煩悩は、一次的自己愛の夢が、破れるところから、はじまると、言う。

自分が自分を愛するセルフ・ラブという意味での自己愛が成立するのは、自給自足的自己愛状態が破綻し、原始的な心理・生理的な自己からやがて自己愛の対象になる自己表象が、分化・発達することを通してです。
小此木

この、一次的自己愛の状態を、マーラーという学者は、自閉期と、呼ぶ。
自閉的である、自己愛の時期とは、深い意味あり。

それは、フロイトが、対象関係がはじまる以前の、自閉的な状態をモデルとして、最初に、自己愛を、考えたとする。

外界を認識しなかった赤ん坊がだんだん外界を認識するようになってくることと並行して、今度は外界に対する自分をどのように認識していくかが問題になってくるわけです。
小此木

それは、外界との、境界線である。
身体的な自分と、身体以外の、物体の区別である。

見る、聞く、触れるなどの外部知覚と身体の内部感覚が識別され、身体と渾然一体となった原始的な心理・生理的自己が経験されるようになります。しかし、この段階ではまだ統一的な自己表象が形成されるところまではいきません。
小此木

自己認識の対象を、自己表象と呼ぶ。
普通、自己意識といわれるものと、共通した、側面を持っている。

では、自己愛の対象となる、自己表象は、どのようにして、形成されるのか。

色々な学者の説があるが、共通しているのは、自己像、自己表象というものは、自分が自分を見たり、感じたりしているだけでは、中々、成立しないということである。

そこには、認識構造の、質的な転換があると、考える。

そこで、小此木氏は、ラカンという、学者の説を紹介する。

ラカンは、鏡像段階と言う。
それは、幼児期、生後六ヶ月から、一年半の間に、この段階を通過する。
こり時期に、他人の姿や、鏡に映る自分の姿を見て、その鏡像と、自分を、同一視することが、自己像を形成するというもの。

ここでは、とても、大切なことが、語られる。

幼児は、母親の心の中に抱かれている、自分に関する、イメージを感じ取って、自己像を作り出すというのである。

それ以前の、赤ん坊は、自分が統一されたものではない、未統合で、ばらばらの、心理状態が、続くという。

ということは、母親が、身ごもったときから、それが、始まっているということだ。

そして、名前をつけられた時点から、その子の、自分は何者かという、自己統一性、アイデンティティの、はじまりがあるということ。

フロイトが、人間の自己愛の問題とは、生まれてくる以前に、親の心の中で、はじまっていると、考えたことは、実に鋭い指摘だといえる。

小此木氏は、精神科医は、その患者が、どのような状況で、生まれてきたかを、診療の上で、大変に重視すると、言う。

夫と、どのような関係だったか。
妊娠中の気持ち。
産んだときに、どんな気持ちだったのか。

子供が生まれるときの、状況を詳しく、尋ねると、言う。

そこから、患者の、自己愛の起源を探る。

最も、それほど、精神科医が、真っ当に患者の話を聞くのかは、解らない。
溢れるばかりの、患者の多くに、そのようなカウンセリングが、出来るのか。
現実は、薬の処方箋を書くのが、関の山・・・かもしれない。

何せ、精神科医の、死因の第一は、自殺である。

私は、いつも、精神科医のための、診療による、ストレスを取り除く、方法が必要だと、思っている。
あるいは、彼らが、一番、悩み、苦しんでいるという、可能性が、高い。

フロイト自身が、そうだった。
精神科医になるということも、それは、自己愛の姿であるから、実に、難しいことである。

精神医学で、人間の、すべてを、解決し得ない問題もあるということを、言う。

これは、霊学の、入り口の、更に、入り口であるから、多角的に、それらを、俯瞰してみる。

2011年07月09日

霊学27

私たちが「希望をもつ」というとき、常にわれわれの心には、自己自身についての理想化された自己像が思い描かれています。多くの困難に耐えて生き抜くことのできる、常に希望を失わぬ人物ほど、この種の自己愛は巨大で豊かなのです。
小此木啓吾

自己愛が、人生の、エネルギー源になるという、話である。

この理想像と現実像を一致させようとする心の営みは、ひげをのばし、お化粧をすることから、ものを買うこと、そして一定の才能を発揮して、仕事を達成することまで、様々なものがあります。自己愛は、この営みを通して、人生の活力源になるのです。
小此木

さて、人には、自己愛領域というものがある。
得意なものは、その端的なものである。

それが、直接的に、現実生活と、結びつく人は、実に、幸運な人といえる。

ただ、現実生活に、結びつかない、領域でも、それを持つ人と、持たない人では、大きな差が出る。
つまり、常に、不全感、劣等感が、つきまとう状態でも、自己愛の領域を持つ人は、立ち直りが早いのである。

ここで、その自己愛の、領域が、無く、満たされない人には、反社会的な、自己愛の領域を持つが多くいるという、事実もある。

例えば、どこからも、自己愛の満足を得られないがために、アルコール中毒、競馬、競輪、やがて、犯罪的行為・・・
社会的不適応である。

社会的不適応は、やがて、精神的障害、精神的疾患となる、場合もある。

更に、自己愛を、深めていくと、自分に関わるものに対する、感情がある。
自分が、関わる、人間、人間関係、グループなどである。

自分に関わりがあるというだけで、感情の高揚が起こる。
自我感情の、高揚と、拡大である。

つまり自我感情の高揚には、自分自身こそもっとも素晴らしいものであるという気持ちがあり、だからこそ自分がかかわるものは素晴らしいはずであり、よいことであるはずであり、意味があるはずだという期待を抱くわけです。
小此木

ただ、これが、思想グループ・・・つまり、宗教や、極端な、偏狭思想の集いなどだと、問題が起こる。
自己愛を、徹底的に、その思想、考え方などに、投じてしまうのである。

そうすると、唯一絶対に、それが、正しいものだという、偏狭な自己愛の、表現なってしまう。

その、確信を、自己愛だとは、気づかずに、没頭するのである。
極端に言えば、自己洗脳をしてしまう。

自己愛の危険さ、というものがある。

だが、自己愛を、広く、優雅に利用すると、郷土愛、愛国心、更に、自分と、かかわりのあるもの、すべてに、愛情を抱くことになる。
そして、その関係を、日本人ならば、縁があると、言う。

つまり、自己愛は心の世界の中にあらゆる面にネットワークを伸ばしていて、自分の中だけではなく、外の社会に対しても人間に対しても、あるいは動物に対しても広がっています。この自我感情の拡大をナルシスティク・エクステンション(自己愛の延長物)といいます。
小此木

だが、それは、あくまでも、主観的な心の世界のこと。
幻想や、錯覚も、多いということを、知るべきである。

自分が、勝手に、幻想、錯覚を抱き、それが、違うと、気づいた時に、そんなはずではなかった。おかしい。そして、相手側に、非があるように、思い込むと、それが、精神不安定を招く。

勝手に思い込み、心酔していたものに、裏切られたと、思い込む。
すると、それが、神経症の、症状になることもある。

自己愛というものを、捉える時に、どのように、それを扱うのかということが、問題になる。

自己愛幻想は、私たちの隠れ家であり、安全装置であり、防壁でもあるのです。しばしば精神分析学者たちは、自己愛幻想を母の胎内にいるという幻想=胎内幻想にたとえますが、未熟児のまま母の胎内いるのに危険が一杯のこの世界に押し出されたヒトを守ってくれるのが、この自己愛幻想なのです。
小此木

ここで、健康な自己愛という、テーマがある。

自己中心性、自分の主観というものが、出来上がる、幼児期からの、体験と、実に深い関係がある。

自己愛を、端的に言うと、それは、自分で、自分を受け入れられる能力と、言える。
それが、真っ当に、機能しないと、様々な、バランスを崩す。

つまり、人を愛する前に、自分を愛することを、学ぶということである。

生涯に渡って、人間の精神は、この自己愛から、逃れられないのである。
だから、健全に機能させるべきである。

人間は、生まれた時から、ある種の錯覚を起こして、物事を見つめている。

赤ん坊は、母親が、喜んで自分を抱くと、錯覚する。
それは、自分が存在すること、それ自体を、全面的に受け入れられているという、感覚である。
その、錯覚があれば、こそ、基本的自己愛の形成にとっては、必要なものである。

それが、赤ん坊の全能感覚を、作る。

ただし、ここで、全能感に基づく、基本的な自己愛と、才能などに結びつく、自己愛領域、つまり、社会性を持つ自己愛とは、区別しておく必要がある。

霊学26

フロイトは、自己愛を自己に関する、全能感と、呼んだ。

そして、この全能感の究極的な形態は、来世や霊魂の不滅を信じることに帰着する宗教であると考えたのです。
小此木啓吾

それも、自己愛の働きであるということだ。
そして、それは、本能的な自己への愛着であるから、人間の自我は、そこから、脱却しなければならないということを、フロイトが説いた。

死ぬという、現実を、受け入れる、そして、全能感を克服することが、人間の究極的な、精神的課題であるとした。

フロイトの、宗教論、幻想の未来、は、大いに参考になる。

つまり、か弱く、無力な乳幼児が抱く、全能の幻想から、脱することが、出来ないのは、成熟していないからだ、ということになる。

そしてフロイトは、自分だけは特別で、永遠なものにつながってるという全能感を誰でも人間は、深層心理の中に、隠し持っている。とりわけ幼児は、幼児的自己愛とよぶことのできるような子どもっぽい全能感をもっている。子どもたちが、魔法を信じたり、大変に自己中心的な自己誇大感を抱いているのはこのあらわれである、と述べています。
小此木

フロイトの言葉
両親にとって子どもはかつて自分が子ども時代に自分のことをそう思い込んでいた「赤ん坊陛下」である。子どもは、父親がなれなかった偉人、英雄になり、母親が恋人・夫にもてなかったおとぎ話の王子様のようなナイトにみそめだれるだろうという期待を向けられる。そうした愛は、実は両親自身が幼児時代に抱いていた自己愛の再生なのだ。子どもは自分たちよりも幸福でなければならないし、病気、死、もろもろの不幸・災厄時に無傷でなければならない。自然法則や社会原則も子どもに対しては、その支配を停止されるべきであり、子どもこそはすべての創造の中心になるべきだ。

子供に対する、親の、潜在的な、幼児的自己愛の、姿を書いている。

このような、幼児的自己愛を、克服し、的確な自己認識を持つことが、精神的課題なのであると、フロイトは、言う。

さて、ここで、フロイトに対して、違う解釈をする、学者たちも、多数いる。
だが、それは、後に、紹介する。

精神医学的にみると健康な人間というものは、とても楽天的で、おめでたくて自己愛的なものだという事実をここで厳しく指摘したいのです。大きな不安があっても、すぐに忘れてしまう。・・・「自分だけは特別だ」という気持ちが自己愛心理の基本である・・・
フロイトの理想主義とは矛盾して、このような全能感を抱けるということは、やはり精神医学的には健康のしるしとみなさざるを得ないのが人間のリアリティなのです。
小此木

健康な楽観性の、一番基礎にあるものが、自己愛だということ。

ところが、年を取ると、それが、減ってゆく。
中年期を過ぎると、肉体の衰え、容姿の衰えによって、突然、自己愛の幻想から、目が覚める。その体験が、繰り返されるのである。

全能感が、微妙に、変化してゆく、人生である。

自分は、違う、特別だ・・・
しかし、ノイローゼの人は、健康な自己愛が、脆弱で、楽天的な甘さによって、我を守れなくなる。
その意味では、自己愛とは、一つの、心の防御を果たしていると、いえる。

だが、自分だけは、不幸に遭う、と、考えると、それは、ネガティブな全能感となり、少しの、不幸な状況でも、それが、肥大化して、逆の、全能感になる。

不安である。
不安な幻想が、肥大化して、ノイローゼという、症状になる。

不安は、恐れを生み出し、恐れは、事態を引き起こす、きっかけになり、自ら、危険に近づいてゆくこともある。

一度、不安発作を、起こすと、それを、繰り返すということになる。
そして、その、発作を、恐れることにより、日常生活が、スムーズに立ち行かなくなる。
パニック障害とも、同じである。

よく、同じ世代の人を見て、年寄りだ、爺さんだと、言う人がいるが、それは、自分が、実年齢より、若いと、思い込んでいるか、我を忘れているのである。

人間は、自分に都合よく、考える特性がある。
それも、自己愛なのである。

ところが、その感覚を、正さなければならない、出来事などがあると、つまり、老化した、自分についての、現実否認が破綻するのである。

破綻するたびに、自己愛が、傷ついてゆく。
それを、繰り返す。

女の場合は、年齢否認が、多い。
老化してゆく事が、耐えられないのだ。
だから、突然のように、若々しく着飾る女もいる。

本人は、若いつもりであるが、周囲からは、化け物に見える。

人間は、現実というものを、受け入れるのが、いかに、大変で、難しいことか。
おおよそ、自己に関しては、多くの幻想を抱いて生きているといえる。

自己に、関する、幻想ほど、大きなものはない。
真実の、自己を見ない、見えないということで、かろうじて、生きていられる人が多いと、いえる。

つまり、自分ほど、自分が、解らないのである。

自我意識と、自己意識との、出会いが、真っ当に行われないと、いつまでも、幻想の私に、翻弄されていると、いえる。

ただし、それが、問題なく過ごせるというのであれば、修正することも、無いのかもしれない。
幻想を抱いたまま、死ぬということが、幸せだと、考える、価値観があっていいのである。
明晰な、自己意識を持たずとも、生きられるということである。

2011年07月08日

伝統について。47

昨日見て 今日こそ隔て 吾妹子が 幾許継ぎて 見まくし欲しも

きのふみて けふこそへだて わぎもこが ここだくつぎて みまくしほしも

昨日逢って、今日だけ離れているのに、吾妹子を、ずっと、見続けていたい。

単純、素朴。
そのままを、歌う。

人も無き 古りにし郷に ある人を めぐくや君が 恋に死なする

ひともなき ふりにしさとに あるひとを めぐくやきみが こひにしなする

人もいない、古びた里にいる私を、可愛そうに思うのか。あなたは、私を、恋に死ぬ、とするのか。

古りにし郷
卑下した言い方である。
つまり、我が身を卑下している。

恋死にさせようとしているのか・・・

辛い、片恋であろうか。

人言のしげき 間守りて 逢ふともや さらにわが上に 言繁けむ

ひとごとのしげき まもりて あふともや さらにわがへに ことしげけむ

人の噂が、しきりにある中を逢う。そして、私に対する、噂は、一層激しいものか。

今も昔も、人の恋路は、噂が、盛んになる。
人の恋路・・・
皆、とても、興味があるのだ。

そして、それは、また、我が身にも、返ってくるもの。

里人の 言縁妻を 荒垣の 外にやあが見む 憎くあらなくに

さとひとの ことよせつまを あらがきの そとにやあがみむ にくくあらなくに

里の人たちが、噂で、私に寄せる妻を、荒垣の外から、私は、見るのだろうか。憎くはないものを。

とても、仲のよい関係なのに、里の人たちが、噂して、真偽を話し合う。
それを見て、実際は、とても、愛しているのにと、思う。


人眼守る 君がまにまに われさへに 早く起きつつ 裳の裾濡れぬ

ひとめもる きみがまにまに われさへに はやくおきつつ ものすそぬれぬ

人の目を気にする、あなた。連れられて、私は、朝早く起きて、裳の裾を濡らしたことです。

逢引の後の、朝である。

君が、さあ、急いでと、促す声に、朝露に裾を濡らしつつ、急いで、人目から逃れるように・・・

何とも、微笑ましい。

若さが、溢れる。
この情景が、歌、演歌、流行歌になって、歌われた。
そして、今は、また、新しい言葉となり、その心境が、歌われる。

恋を扱う歌は、いつまでも、廃れない。

人がいる限り、恋する心は、存在する。
恋する。つまり、それは、生きることなのである。


2011年06月27日

パプアの叫び11

夕方近くまで、部屋で、休んでいたが、何となく、物足りない。
そこで、出掛けることにした。
暗くならない前に。

朝のスラムとは、逆の道を行くことにする。
そして、人々の衣服を見て、本当に、必要であることを、感じていたので、私は、コータに、着替えのものを、すべて出すようにと、言った。
私も、着替えの衣類を出した。

すべて、渡して行こうと思った。

それは、正解だった。

道々、行く人に声を掛けた。
必要ですか・・・
おーーーセンキューセンキュー

何度も、礼を言われる。
最後に、若者たちに、渡した。
すると、彼らは、私たちに、抱き着いて来た。

傍にいた人たちも、ありがとう、ありがとう、を、繰り返す。
皆と、写真を撮る。
それも、実に楽しい。

次に来る時は、もっと、沢山持ってくるね
私が言うと、歓声が上がる。

闇が降りるまでに、ホテルに戻った。

そして、昨夜買った、パンなどを食べて、夜が終わる。
さっさと、寝る。

翌朝、コータが、散歩に出た。
帰国の日である。
ホテルをpm12:00に出る。

十分に時間がある。
チェックアウトは、am10:0であるが、日本のホテルのように、厳密ではない。適当である。

私たちは、ぎりぎりまで、部屋にいた。

さて、コータが戻って、とんでもない人と、出会ったと言う。
歩いている、向こうから、声を掛けてきた。
日本人・・・と尋ねた。
そうですと、言うと、とても、親しく話し掛けてきた。

そして、私たちの活動のことを、言うと、彼は、何と、陸軍の軍曹であり、更に、次に慰霊に出掛ける予定の、東部ニューギニアのマドナの出身だというのである。

更に、コータに、次ぎは、私が全面的に協力する。
故郷には、妻がいて、学校で、教えている。
子供たちには、衣服、文具も必要なので、是非、支援して欲しい・・・

あーらっ
こんなことに、なるんだ・・・

陸軍が、支援のバックアップをしてくれれば、危険な所も、平気だ。
何と言う、僥倖か。

更に、彼は、連絡先を書いて、自分のすべての情報を、コータに渡したという。

軍の連絡先から、住まいの住所、連絡先・・・・

最後に、このようなことになるのは、大よそ、いつものことである。

そして、更に、である。

空港で、搭乗手続きをしていると、一人の男性が、声を掛けてくれた。
とても、静かに話し掛ける。

日本の方ですね
私のポーチの、日の丸を見たのだ。

そうです
日本のどちらですか
横浜です
彼は、大きく頷き、実は、私は、横浜ジャイカの仕事を手伝っています
へーーー
また、こちらに来ますか
ええ、慰霊と、支援に来ます
と、言うと、彼も、すべての連絡先を書いて、私に差し出し
何かあれば、連絡ください。ご協力します
である。

いつも、どこかで、協力者が、現れるのである。
これは、私の運である。
運だから、理解する何物も、ない。
不思議なだけである。

ジャパニーズ・テンです。
忘れられない、名前になる。
日本人・テンなのである。

あの、一番危険な場所での、支援の際に、人々は、コブシを上げて、
ジャパニーズ・テンを繰り返した。
大統領選にでも、出る勢いである。

パプアニューギニアは、建国35年。
人々は、国民意識が希薄である。
まだまだ、国家幻想を作り上げるには、時間がかかる。

日本は、建国2671年である。

美しい神話があり、更に、それを確定する、天皇が、存在する。
私は、美しい、国旗、日の丸に、守られて、この活動を続けられる。
何と言う、幸せか。

パプアの叫び10

ラバウル、ココポから、ポートモレスビーに、戻り、二泊して、帰国することにしていた。

次ぎのホテルは、空港に近い、街から少し離れたホテルである。

夕方、モレスビーに到着し、ホテルに電話をして、車を待つ。
夕暮れ時は、暗くなるのが、早い。

車に乗って、街を走ると、到る所が、暗い。
そこでは、男たちが、たむろする場所が、多々あった。
これでは、危険である。

襲われたら、決して逃げられない。
夜間の外出は、しないで下さいとの、勧告であったから、納得した。

一番安い、ツインの部屋である。
部屋には、両側に窓があり、開放感がある。
しかし、窓には、鉄格子である。

遅く着いたので、食べ物などを、用意しなければならない。
そこで、ホテルに頼み、タクシーを呼んでもらう。
タクシーに乗ることも、危険と、言われているので、ホテルに確認する。

スーパーに買い物に行き、戻る。
料金は、30キナ、120円であるが、随分と高い。
安全料である。

大量に、買い物をした。二日分の食糧である。
それでも、ホテルのレストンを使うより、十分に安い。

パン類が、多かった。
弁当も、買ったが、長く持たない。
その夜に、食べる。

翌朝、私は、一人で、付近を歩いた。
ホテル近くに、スラムである、セトルメントという、地区がある。
そこには、部族であった人たちが、住む。
危険なのは、違う部族の人たちも住むからである。
トラブルに、巻き込まれる。

決して、中に入らないようにとの、注意である。

だが、私は、後で、コータと一緒に、セトルセントの中に入った。

皆さんとても、人懐っこいのである。
私たちに、皆さん、挨拶する。

そして、奥に入って行く。
歌が聞える。
興味深くて、その歌の集会の前に出た。

朝から、ビールを飲んでいるという。

セトルメントは、政府が、水と電気を無料で、与えているという。

私たちが、最初に挨拶した、人たちと、奥にいた人たちは、部族が、違った。
そこで、問題が起こった。

私と、コータが、歌う中に入って、挨拶したが、一人の男、ボスである、が、立ち上がり、何か言う。
英語でないので、意味が解らない。

一緒に付いてきていた、最初の部族の人に、噛み付いている。
要するに、何故、俺の所に、最初に来なかったのか、というものである。

写真も、まず、俺たちから、写すべきだ・・・

ああ、こういうことだったのか。
私たちは、静かに、元の途を戻る。

唯一、私たちが、大きな騒動に巻き込まれなかったのは、最初から、日本人であることを、明確にしていたからである。

パプアニューギニアと、ジャパンは、ベストフレンド・・・
と、言いつつ、中に入っていったのである。

男たちが、皆、親しく、握手をする。
更に、子供たちも、出てきた。
皆で、写真を撮る。

次に来る時に、子供たちに、プレゼントを持ってくるね
そう言うと、大人たちが、サンキューと、繰り返した。

この行為は、自業自得であるから、何か起これば、私たちの責任である。
単なる、興味で、彼らの住居空間に入れば、非常に危険である。

そこで、二人の若者が、私たちに、着いて来た。
山を案内しましょうか・・・
だが、やんわりと、断った。
後で、ガイド料などを、請求されることもある。

だが、二人と、更に、ニ三人の子供たちは、ホテルの門の前まで、着いてきて、その間、色々と、話しをしたが、ホテルの門の前からは、動かない。
それ以上、中に入ることは、出来ないのだ。

私たちは、再会を約束して、別れた。

その日は、それだけである。
後は、ただ、休むことにする。

ホテルにいる間は、安心である。
何処かしこと、ガードマンが立つのである。

兎に角、安全のために、金を使うという、状況を、目の当たりにしたのである。
日本では、考えられないことである。

部屋の、一万円ほどの、料金の、大半が、安全料なのである。

水と、安全は、タダではなかった。

2011年06月26日

パプアの叫び9

昭和二十年(1945年)八月、戦争は終わった。日本は敗れた。しかし我々には敗れたということがどういうことなのか、日本が、国自体がどうなっているのか、それがまったくわからなかった。わかりようもなかった。祖国は遠い。一体これからどうなるのか、何もわからなかった。最初は終わったということさえよくわからなかった。
八木弥太郎

そして
見上げる椰子の葉の間にのぞく青空は昨日のものとは変わっていないが、その空から一切の音が消え、森閑とした静けさだけが残った。その静けさに戦争は本当に終わったんだなという実感があった。
八木弥太郎

それから、武装解除が、行われ、日本軍の武器が、ラバウル・ココポの沖合いに、捨てられた。
そして、生き残った兵士たちは、捕虜として、扱われることになる。

しかし、捕虜になっても、マラリアで、命を落とす者もいた。

捕虜生活は、毎日の、肉体労働である。

各人の行く先や課せられる仕事は一定していなかった。豪州軍の使役を割り当てられた者は、相手が日本軍をひどく憎んでいたので、行く先々で苦労をした。仕事の中味もきつかったが、土を掘っていると後ろから腰を蹴られたり、足もとに自動小銃を撃ち込まれたりした者もいた。彼らとすれば交戦時の延長で、鬱憤を晴らしているつもりなのだろうが、こちらから見れば抵抗できない者への八つ当たりとしか映らなかった。
八木弥太郎

更に、食事である。
そこで、ある意外なことが起こったと言う。
戦勝国の中国兵も、そこにいた。

日本兵が、飯盒を開けて食べていると、一人の中国兵がやってきて、飯盒の中を見て、その甘藷を捨てて、こちらへ来いという。
中国軍の幕舎であり、地面にゴザが、敷いてあり、大きな鍋が二つ置かれていた。
一つには、真っ白なご飯、もう一つには、肉と野菜を煮込んだもの。

兵隊たちの、食べた後の残りである。
それを、食べろという。

更に、残ったものを、持って、他の兵士にも、食べさせろと、言った。

その中国兵は、日本軍と、戦った時の傷を見せたが、こう言ったという。
私は、日本を怨んでいない。中国と日本は、隣同士の国である。皮膚の色も同じだ。これから、互いに、仲良くしてゆかなければならない。日本は、必ず、立ち直る。我々は勝ったといっても、決して、白人の軍隊を味方だと、思っていない。と。

米、豪、中、そして、英国、オランダ軍もいた。
その中で、中国兵は、差別を受けていたという。
中国軍は、おまけ、で存在するといった、雰囲気だったと、八木氏は、書く。

八木氏は、昭和21年4月14日に、帰還する船に、乗船した。

嘘のような、出来事に思えたという。

ところが、ここで我々は大変な光景を見てしまった。船が港を出て岬をまわり始めたとき、目の前に現れたのは、山麓に鉄格子を張り巡らした中で手を振り号泣している大勢の日本兵の姿である。戦犯と見なされ収容された将兵がいるということは聞いてはいたが、こうして見るのは初めてだった。
一瞬甲板はしーんとなり、声が止まった、やがて「元気でいろよー」と怒鳴る声がし、それをきっかけに口々に励ます声が叫び声となって沸き上がった。その声は船が岬をまわり終わって、陸地の人影がまったく見えなくなるまで続いた。
八木弥太郎

帰還する者、残る者

多く、引用したい箇所があるが、八木氏の、考え方を記して、終わる。

一方また、私の持つこの思いは、かつての戦争を知らない世代の人々から見れば、過去の別世界の人間の繰言としか映らないであろうし、何故そんなことにそれほどこだわるのか、理解に苦しむといわれてしまうものなのかもしれない。ましてや戦争がすでに遠い過去のものとなった今日では、歴史として戦争批判や議論だけは盛んになっても、同時の若者たちの「無念」につながる心の深層にまで思いをいたすことは少ない。それどころか、そんなことは戦争論議からはずれた抹消のことではないかとさえ言われそうである。
しかし、当時の大部分の若者たちは、いわば濁流のような大河に呑み込まれながらも、抗する術も知らず、やがて茫洋たる大海に出られる日の来ることを信じて戦場に赴いたのである。・・・

戦場という有無を言わさぬ場に身を置き、運命を共有する集団の中で命を賭す以外に途のなかった苦しみ、その苦しみを抱いて戦った若者たちの心の在りようは、後世の論者の憶測の域をはるかに超えている。
私が「無念」としか言い表せないこれら死んだ若者たちの心の傷跡は、あとから「殉国」というようなひとからげの賛辞でたたえられようが、あたかも当然であったかのような「反戦」という歴史批判の言葉の中で悼まれようが、けっして消えることはないし、そんな騒々しい意味づけをしてもらっても喜ぶはずがないと思っている。
一緒に戦場にあった者としては、ただただ「死なせないでやりたかった」と思うばかりで、言ってやれる言葉は何一つない。生きていてこそ人生だったと思うし、生きる自由を失い、自分ではどうしようもなかったたった一つの人生の喪失に対して、何をどう言ってやったところで慰めにはならないと思っているからだ。
八木弥太郎

戦争を知らない世代の人たちには、こうして死んでいった当時の若者たちの「無念さ」を踏み付け踏み固めた歴史の上に今日の平和が築かれ、それぞれが貴重な生をうけているのだということだけは知っていてもらいたいと思う。
八木弥太郎。

八木氏は、俳句を得意としていた。
戦場でも、俳句を作っていた。

帰還し、祖国に帰ってからも、病魔に冒され、それでも、生きる事が出来た。
人生の後半になって、はじめて、当時のことを、書いておくべきだと、筆を取られた。

この手記によって、私は、知らないことを、知る事が出来た。
感謝する。

帰らばや 遺品(かたみ)なれども 雲の峰
八木弥太郎

次ぎは、東部ニューギニア戦線に、慰霊に行くことにしたい。

2011年06月25日

パプアの叫び8

ココポの街での、支援は、あのポートモレスビーの危険に比べたら、全く問題ないもの。

私たちが、二つのバッグを抱えて、街に向かい歩く。
ハロー
ハロー
皆が、挨拶する。

一人のおばさんが、近づいて来た。
挨拶をして、何やら話しをしていると、これから何処へと、言うので、説明すると、何と、貧しい人たちは、病院にいると、言う。

皆、貧しいのだが、それ以上に、貧しい人たちは、病院にいるのである。
そして、おばさんが、8番のバスに乗って、行くといいと、8番のバスを止めてくれ、私たちの、行き先まで、運転手に伝えてくれた。

歩くには、遠いが、バスだと、すぐに到着した。
少し、道から外れた場所に、病院があったが、バスが、病院の前で、止まってくれた。

病院の前には、受付をしている人たちが、大勢いた。
更に、診療を待つ人たち。

私たちは、日の丸を掲げて、診療を待つ人たちの所に、向かった。

大人も子供もいる。
日本からの、プレゼントを持ってきました・・・
私が言うと、歓声が、上がる。

丁度、皆さんとは、金網の、柵で、隔てられているので、こちらと、向こう側になる。
一つ一つの、衣服を取り出して、それに、合う人に、手渡しする。
そして、次第に、熱が帯びてくる。

それっ、ミー
ミー
ミー

おばさんたちは、本当に元気である。
子供用のものは、子供に渡す。
遠くにいる、子供にも、大人の手を通して、渡される。

ほぼ全部を出したが、足りないのである。

最後に、フェイスタオルを取り出した。
すると、皆、手を出す。
すでに、後ろにも、人が集っていた。

限りあるもので、女性を中心に、手渡す。
日本語の入った、タオルである。

どこでもそうだが、タオルは、貴重品で、とても、喜ばれる。

最後に、バッグが欲しいと、言う人・・・
そこで、いつもの、バッグ二つを差し上げることに。

支援物資を入れていた、バッグである。
だから、残ったものは、大きなバッグと、日の丸の旗だけになった。

次に来た時は、もっと、沢山もって来ます
私が言うと、歓声と、感謝の言葉である。

戻る私たちの、背に、更に、言葉を書ける。
サンキュー

道に出て、八番のバスを待つことにした。
すると、一人の男が、子供用にと、上げた、シャツを持ってきて、私に、サインして欲しいと言う。

だが、ペンが無い。
すると、彼は、その道の前に、売店があるという。そこに行くことにした。
何と、カトリック教会の売店だった。

そこで、ペンを借りて、サインをする。
木村天山と、その下に、TENと、書き入れた。
男は、とても、喜んだ。

そして、次に来た時は、電話をくれと、番号を言うが、残念ながら、覚えられない。
オッケーオッケーを、繰り返して、別れた。

8番のバスは、多く、何台も来る。
その一つに、乗る。

そして、街中にある、バス乗り場で、降りることにした。
その前には、私たちの行く、スーパーがある。

そのまま、スーパーに買い物に行く。
毎日の食事は、そのスーパーの、フードコーナーのものを買って、食べた。
要するに、弁当である。

水は、毎日、買う。

汗だくで、ホテルに戻り、すぐにシャワーを浴びる。
水シャワーだが、ぬるい。
暑さで、水も、温くなっているのだ。

かえって、少し冷たいのが、心地いい。

ホテルスタッフたちも、私たちが、何をしているのか、理解しているので、親切である。
何か、現地の言葉で、私たちに、感謝の言葉を言う。

一般的に、英語だが、現地の人たちは、現地語で、話す。
最初の、スクールでは、現地語での、教育をし、中学から、授業が、英語になるという。

兎に角、支援を終えて、慰霊を終えると、すべてを、終わる。
慰霊は、後、二回することにしていた。

最初に、慰霊をして、次に、支援活動をする。
そのように、決まっている。

街の人たちの着ているものは、実に、使い込んでいて、更に、汚れている。
皆、そうだから、気にしないようである。
私から、見ると、皆、貧しいのである。

ボロ布を着ているという、感じである。
だから、私は、自分たちの、着替えのものまで、最後に、渡すことになる。


パプアの叫び7

ラバウル・ココポに滞在する期間は、五泊である。

その、四泊目の夕方、部屋に戻ると、まず、ライターが無いことに気づく。
そして、コータは、携帯電灯が無いことに気づく。

えっっっと、私は、お金を調べた。
すると、半分無いのである。

何度も、繰り返し、点検した。が、無い。

コータが、フロントに、それを伝えるために、部屋を出た。
ホテルのマネージャーが、別のホテルにいる、ジェネラルマネージャーに、相談すると、答えたという。

感情家の、私は、伝えるとは、何か、と、次第に感情的になる。
そんな、適当なことではない。

それで、私たちは、フロントに下りて、理由を言い、明日、ボスと、警察を呼べと、言った。

私は、この国と、日本の友好のためにも、ここに滞在し、更に、スタップの親切な対応に、とても、快くして、ラバウルのホテルに行かずに、ここに泊まっていると、言った。

その場にいた、事務所のスタップたち、全員が、納得した。
そして、明日、ボスと、警察を呼ぶと、約束した。

部屋に戻り、私は、再度、お金の勘定をした。
すると、お金を分散しておいたことに、気づいた。
お金は、無くなっていなかったのである。

あららら

それは、悪いことを、したと、再度、フロントに行き、それを誤る。
と、それから、マネージャーの態度が、少し変わった。
そして、翌朝、更に、態度が、強固になっていた。

貴重品などは、客の責任に帰すという、言葉である。
勿論、それは、十分に知っている。

だが、その対応に、私は、激怒した。

失った物より、客に対する対応に、文句を言った。
大声である。

更に、私は、嫌がるマネージャーを、部屋に連れて、説明した。
こちらには、何の責任も無いという、態度が、更に、私を激怒させた。

責任が無い。だから、お仕舞いではないだろう。
客が、紛失したという物に対して、客を大切に思うならば、せめて、その気持ちを汲んで、何らかの行為を取るべきである。

大声である。

大半の国で、経験したが、大声を嫌がる。
大声が、脅威になる。

私たちは、三つの、条件を出した。
一つ目は、警察に連れてゆく。
二つ目は、携帯電灯の、代金を支払う。
三つ目は、ボスと話しをさせる。

時間も、指定した。
だが、いくら待っても、返事が無い。
スタップたちは、ジェネラルマネージャーの所に、相談に出たというのみ。

要するに、取り合わないという、状況が見て取れた。

マネージャーが、私たちに、紛失したことに、同情し、更に、ベッドメークたちに、問い掛ける・・・等々の行為を欲した。

ホテル中、私の剣幕に、騒然とした雰囲気になったようだ。

時間を二時間過ぎても、連絡が無いので、フロントに下りた。
そして、マネージャーがいることに、更に、腹を立てた。

出て来なさい、と、私が言うと、叫ぶのは、嫌だ。出て行かないと、言う。

叫ばないから、出て来なさい。
ようやく、フロント前の、ロービーに出た。

そこで、私は、静かに、このホテルのスタッフの親切さと、礼儀の正しいことに、とても、感動し、ここに五泊することにしたのだと、言った。
そして、私たちは、あなたの、心使いが、欲しいのだと、伝える。

私には、責任が無い。
マネージャーは、女、おばさんである。

それは、よく分かっている。しかし、お客が、困った時に、どのように対処するのか、それが、問題だと、言った。

知りません・・・
それでは、ホテルとしての、サービス業は、成り立たないだろう。
責めて、警察に、一緒に行くくらいは、するべきではないのか・・・

私は、警察で、紛失したことを、証言して欲しいと・・・

延々と、話しが、続いたが、平行線である。
すると、漸く、ジェネラルマネージャーの所に、連れて行くと言う。

コータの携帯電灯は、高額なものだった。
いつも、旅のために、持参していたのである。

私のライターは、百円ライターである。
どうでもいい、もの、であるが、無くなったことは、事実だ。

ジェネラルマネージャーは、別のリゾートホテルにいた。

それも、女である。
しかし、何と明確に、私たちに、説明してくれた。

そして、出来ることは、ポリスに行くことだが、実は、こちらの、ポリスは、頭が悪く、書類を作るにも、二時間はかかる。
更に、私たちは、あなたたちの持ち物を見ていないために、何とすることも出来ない。
ただし、スタッフが、取ったとすれば、即座に、首にすることになっている。

私たちの、ホテルを気に入ってくれたことに、感謝する。
それで、ベッドメークたちを、調べて、報告する。

感情を害したことに、お詫びします。
それで、今夜のディナーを私から、プレゼントさせて欲しい。

すると、同行していた、マネージャーも、私も、到らずに、申し訳ないと、謝る。

そこから、取り合えず、ポリスに行くことになった。
ところが、本当に、ポリスたちは、頭が悪いようで、書類を書く者がいない・・・
それで、と、全く、へんてこな質問をしたという。

コータも、話しにならないと、戻った。
その際には、行かないと言った、マネージャーが一緒にポリスに入ったのである。

私たちは、それで、もう、満足だった。

だが、その報告を聞く前に、私たちは、ポートモレスビーに戻ることになった。

戦々恐々としたのは、ベッドメークたちだった。
首になっては、大変である。
そこにいた、ベッドメークたちは、白である。

その中で、一人だけ、当日にいた、メークの一人のおばさんが、別の仕事場に出て、いなかったのである。

疑いたくなかったが、彼女しか、後は、部屋に入れた者は、いないのである。
後味の悪いものだった。

私は、ベッドメークの人たちにも、支援物資を渡した。
だが、そのおばさんを、省いて、皆、差し上げますよと言ってから、受け取ったのである。
その、おばさんは、自分から、私が、男の子に渡したかった、立派なリュック型のバックを、欲しいと、言ってきたのである。

ホテルの名誉のために、書くと、その付近では、値段が安く、スタッフの対応が、実に、行き届いていた。
更に、朝食つきである。

街中にあり、わたしたちが、活動するのに、実に良い、場所だった。

2011年06月24日

パプアの叫び6

上陸してから丸一年たって初めて罹ったマラリアで、闇の中へ沈んでゆくような体験をした私は、「死」というものをそれまでとは違った目で見てゆくようになった。そのときはただ無性に淋しかったという思いだけが鮮やかだったが、それ以来は戦地での日常を、「死」の瞬間と「死」に近づく過程とはまったく違う別の世界なのだと思って過ごすようになっていた。
八木弥太郎

ニューブリテン島は、マラリアと、デング熱の産地である。
今でも、実に、危ない。

完全防備が必要である。
長袖、長ズボン、手袋、帽子・・・
勿論、私は、そんなことはしない。

いつも通り、着物か、浴衣を着ていた。
更には、Tシャツと、タイパンツ姿である。

部屋では、裸同然。

マラリアは、高熱が、三日間ほど続き、治る。
しかし、死ぬ人もいる。
体力の無い人である。
当時の、兵士たちは、食糧無く、体力も無くなり、死んでいった。

野戦病院といっても、洞窟を利用する。
薬もない。
ただ、治るのを、祈るのみ。

八木氏は、札幌から、出発して、はるか、六千キロの南の島で戦火の中を過ごした。
命令である。

有無を言わせず、命令を、生きる、兵隊たち。

確かに「死」に至る過程での肉体的苦痛や精神的苦悩は、それ自体恐ろしいと思うし、耐え難いもののように思う。しかし、たとえそれがそのまま「死」につながっていったとしても、「死」の瞬間というものはまったく別のものとして存在し、それは想像しているよりも簡潔で、単純で、ただ限りなく「淋しい」だけの世界ではないか。そう思うと、苦痛や苦悩の彼方にある「死」そのものが実に易しいもののように思われ、戦場生活における気持ちの支えにもなっていたようである。
八木弥太郎

戦争に参加した、多くの若者たちは、その「死」というものと、対峙した。
せざるを得無かった。

特攻隊のみならず、斬り込み隊・・・
すべて、命を捨てる覚悟で、向かう。

昭和19年(1944年)三月、闇の中に落ちていった私は、その後いったん意識を取り戻したものの依然重体のまま大隊本部へ送られ、さらにラバウル患者療養所通称「ラバ患」という、山腹に掘られた洞窟の病院に転送された。当時すでに死線を彷徨していた私は、ここで自分の人生で初めての極限に近い体験を重ねることとなった。
八木弥太郎

そして、多くの戦友の死を、見つめていた。

死に行く、戦友の顔を見つめて、彼は、ただ淋しいだけなのかもしれない、と、臨終の様を見つめていたという。

普通の人間の体温は朝は低く夕方は高いのだそうだが、そこでの私は朝の検温ですでに40度を超え、夕方には絶えず41度台、時には42度近くに達していた。
八木弥太郎

それで、狂い死にした、戦友もいたという。

治る、死ぬ、というのも、それぞれの、人の運なのか・・・

私は、空港での、待ち時間に、多くの職員と、仲良くなり、色々と、ブロークン英語で、話しを聞いた。
現在は、街の中だと、マラリアには、罹らないと言う。
ジャングルに入らなければ、大丈夫だと言った。

私としては、マラリアに罹って、死ぬなら、死んでいい・・・
どうせ、死ぬんだから・・・
マラリアの熱で、死ぬ体験が出来る、という、不遜なものだった。

そして、戦況は、悪化して行く中を、兵士たちは、生きるか死ぬかと、考えながら、日々を送る。
何せ、食べる物も、自分たちで、作らなければならない、状態に追い詰められた。
それを、一々、紹介することは、出来ない。

要するに、輸送船が、すべて撃墜され、沈没したのであるから、食糧も何もかも、無いのである。

戦争犠牲者は、兵士だけではない。
輸送船の人々も、海の藻屑となったのである。

私が入院している間に、中隊の主力は「ココポ」に近い「南飛行場」の周辺に陣して対空挺部隊となり、一部は海上照射隊として分隊単位でラバウル北、西海岸の各所に配置されていた。空を照らす部隊が、空から降下する、落下傘部隊やグライダー部隊を迎え撃つ地上戦闘部隊に変わり、照明灯は敵の上陸に備えて海面を照らす武器に変わっていた。
八木弥太郎

敗戦に近くなる頃は、敵の兵器の有様に、驚くばかりだったという。

戦車に対して、肉薄攻撃に絞られ・・・
つまり、人間が、爆弾を持って、戦車に体当たりして、攻撃するというものである。

それは、どこの、戦地でも、行われた。
最後は、体に、爆弾を巻きつけて、敵に乗り込むのである。
まさに、死を覚悟して、である。

負けると、解っていても、それ以外の方法が、無い。
戦い止め・・・と、言われるまで、それが続く。

無駄な死・・・
今だから、そんなことが、言える。
この、安穏としている、世の中で、戦争のことを、語るのは、至難の業である。